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◆【 融 】


犬に噛まれた傷は思いのほか治りが悪く、ルカは2、3日してようやく無理な
く動けるようになった。いつもなら一晩で治るところだが、やはりあのとき十
分に栄養を採ることができなかったからか。
更に一日、曇天を待つ。
ルカは着物を包んだ風呂敷を手に、あの家へと向かった。

これ以上関わらないはずじゃなかったのか?

しばらく歩いたところでルカは立ち止まり、自問した。
一度口を利いた相手とは、再び顔を合わせないように気をつけている。
この町でルカの存在を知っているのは、住居代わりにしている宿の者だけだ。
それも、素性は詮索されていない。同じ宿の他の客とでさえ、顔を合わせない
ようにしている。
それなのに、今向かっている家の住人には、怪我をして追われている姿まで見
られているのだ。念を入れるならば、始末してしまってもいい相手だった。

いや、そこまですることもない。助けてもらったのだしな。

今日も、借りた着物を返すだけだ。黙って玄関先にでも置いてくればいい。
ルカは自分にそう言い聞かせると、再び歩き始めた。

例の家の近くまで来たとき、子供の争う声が聞こえてきた。
子供は厄介だ。
その鋭敏な勘で、ルカの正体を察することがある。大人以上に、関わると面倒な
ことになる相手だった。ルカは角の手前で立ち止まり、様子をうかがった。

「鬼っ子、鬼っ子、異人の子!」

どうやら、数人の男の子が、一人の女の子を囲んでいるようだった。

「妾の子供はできそこない!」

そう言われた途端、女の子は自分を囲んでいる子供のうち、一人の胸を両手で
突いた。突かれた子供は、そのまま後ろに倒れてしりもちをついた。
「何するんだよ!」
「かあさまは、妾なんかじゃない!」
「嘘つけ、じゃあなんでお前のところにはとうちゃんがいないんだよ」
「今はお仕事で遠くにいるんだってかあさまが言ってた」
「ほらやっぱり、異人の妾じゃないか。おっかさんが言ってたぞ、そういうの、
 洋妾(らしゃめん)っていうんだ」
「違う!」
女の子はまた、男の子の胸を突いた。
「なんだよ、生意気だぞお前」
「そうだ、そんな白い顔して、変な奴!」
途端に周りの子どもたちが、かわるがわる女の子を小突きはじめた。
女の子がバランスを失って転ぶ。ルカは思わず、角から出ていった。

「何をしているんだ」

急に大人が現れて、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
が、逃げながら一人の子が投げた小石が、女の子の足に当たった。
「こら!」
ルカが声を上げると、子供たちは今度こそ一目散に走って逃げてしまった。

「大丈夫か?」
ルカは女の子の手を取って起こし着物の土を払ってやった。
投げられた石で、脛に怪我をしている。その足の白さに、ルカははっとして子
供の顔を見た。

十前後だろうか。きれいな子供だった。
肌が抜けるように白い。髪も目も薄い色で、二重を縁どる睫毛も長く、気の強
そうに上がった眉も整った形だ。

「・・・家はどこだ?送っていこう」
一瞬みとれてしまってから、ルカは慌てて女の子に話しかけた。
「大丈夫、すぐそこだから」
女の子はそういうと歩きだそうとしたが、すぐに足を押さえて端正な顔を歪め
た。転んだ拍子に、足首を捻ってしまったらしい。
「ほら、足を痛めたのだろう。つかまりなさい」
女の子はルカの顔を見上げた。ルカが小さくうなずいてやると、今度は大人し
く差し出された手につかまって歩いた。
「あの・・・」
「どうした?」
「このこと、かあさまには言わないで」
「どうしてだ?見たところ、こんな目に遭うのは初めてでもないんだろう?親
 から文句の一つでもつけたほうがいいんじゃないのかい?」
女の子は首を強く横に振った。
「だめ!そんなことしたら、かあさまが、自分のせいだって思うから」
「そうか・・・。わかった、言わないよ」
ルカが言うと、女の子は少しほっとした様子で、ルカの手を強く握りなおした。

女の子の家は、確かにすぐ近くだった。
「・・・ここなのか?」
ルカは、にわかには信じられない気持ちで、女の子が裏塀の戸をくぐるのを見
ていた。
その家は、あの夜の家だったのだ。この家にはあの女性と弥平しかいなかった
はずではないのか。

いや、待て。あのとき、彼女は「大人は」自分と弥平しかない、と言ったのだっ
た。ならばこの女の子が住んでいても嘘にはならない。
では、この女の子のかあさま、というのは・・・。

戸惑いながら、ルカは女の子に続いて戸をくぐった。後ろ手に戸を閉めるより
早く、弥平の声がした。
「景さま!どうなさいました」
「なんでもない、転んだだけ」
「お怪我をなすってるじゃないですか。さ、弥平に見せてくださいまし」
「大丈夫だよ」
「いけません、洗って薬を塗らなくては・・・」
よほど「景さま」が大事らしい。先日とは変わって、慌てた様子の弥平に、ル
カはくすりと笑った。弥平が漸くルカに気づく。
「あなた様は・・・」
ルカは黙って頭を下げた。
「景さまを送ってきてくだすったのですね。ありがとうございます。さ、表か
 らお入りくださいまし」

うながされるままにルカが表に回ると、あの夜の女性が迎えてくれた。同じ座
敷に通される。ルカは着物の包みを出し、先日の礼と無礼を詫びた。

「お気になさらないでくださいな。子細があるご様子でしたし。それより、景
 を助けていただいて、ありがとうございました」
「いや、助けたというわけでは」
「転んでできた傷かどうか、見ればわかります。時々ああして、怪我をしてく
 るのですよ」
ルカは黙った。
「まあ、あたくし、名前も申し上げずにおりましたわ。三枝華と申します」
「私は・・・流川です」
ルカは使い慣れた偽名を口にした。
失礼します、と声がかかり襖が開いた。弥平が茶を差し出す。
「ご覧になればおわかりでしょうが、あの子は普通の子ではないのです」
「お嬢様!」
弥平が驚いた声を出すと、華は弥平に向かってほほ笑んでみせた。すると弥平
はそれ以上何も言わず、茶を置くと一礼して部屋を出た。

「異人の子、と言われていましたでしょう?」
「・・・ええ」
「本当なのですよ。あの子の父親は、仏蘭西から来たのです」
ルカは返事に困って、黙ったまま茶碗を手にとった。
「もう十年以上も前の話ですわ。父の仕事の都合で、仏蘭西から来た方が時々
 家に滞在なさいますの。景の父親も、その一人です」
明治の世になって久しいとはいえ、まだまだ外国人は珍しい。華の父親は、貿
易の仕事でもしているのだろうか。いずれにしても、相当な財産家なのだろう。
「父に変わってあちこちを案内したり、日本のことをお教えしたりしているう
 ちに、親しくなりましたの。その方も結婚を申し出てくださっていたのです
 が、父にはどうしても許してもらえず・・・そうこうしているうちに、お恥
 ずかしいことですが、景を身ごもってしまって・・・」
「想いあっている男女なら、当然のことでしょう。ましてや、結婚を考えてい
 たのでは」
ルカがそう言うと、華は、ふ、と微笑んだ。
「そう言ってくださる方は本当に稀ですわ。結局、景が生まれる前にその方は
 国に返されてしまいました。嫁入り前の娘が、それも異人の子を産んだとあっ
 ては外聞が悪いものですから、あたくしもここに移されたのです」
「それで・・・」
「主人もないのに暮らしがたっておりますでしょう?世間の人には妾だと思わ
 れても仕方ないのかもしれませんわね」
「いや、しかし」
「あたくしは気にとめておりません。けれど、あの子が辛い思いをしているの
 ではないかと・・・」
華はきれいな眉を寄せた。こんな表情をしていても、美しい人だ。そう考えた
自分に戸惑い、ルカは意味もなく咳払いをした。

「・・・男の子は、親が思うよりも強いものですよ」

華は驚いた表情でルカを見た。

「よくおわかりになりましたのね。おっしゃる通り、景は男の子です」

ルカは、初めて近くで景を見たときから、そのことに気づいていた。ルカの鋭
い感覚が見分けさせたのだ。どこから見ても女の子のなりをしている景を見れ
ば、普通の人は気づかないだろう。
そう、普通の人間なら。

「なぜ女の子の格好を?」
「三枝の家の習慣なのです。あの子は、産まれた時に少し弱かったものですか
 ら、そういう子は女の子の格好で育てると丈夫になるという・・・迷信です
 わね。それでも・・・迷信でもなんでも、あの子が無事に育ってくれれば、
 と。親の勝手な思い込みですわ」
「しかし、いつまでもあのままというわけにはいかないでしょう」
「ええ、もう少し大きくなれば、一目で男の子だとわかるようになるでしょう。
 そうしたら、男の子のなりをさせて、あの子とは別れなくてはならないので
 すわ」
「別れる?それは、何故?」
「あたくしには、兄がいるのですが、兄夫婦の間には、子がないのです。この
 ままでは、兄夫婦のもとに養子に出さなくてはならなくて。でも・・・」
華はため息をついた。
「兄夫婦は、あたくしを憎んでいるのです」
「まさか・・・」
首を軽く横に振り、華は続けた。
「嫁入り前に、しかも異人の子を産んだのですから、身内の恥ですもの。景を
 跡取りにすれば、見た目にすぐそれと知れます。かといって、自分たちには
 子がない。兄夫婦に外から養子を取ればよろしいのでしょうけれど、あいにく
 親戚には適当な子がないのです。父も、やはり半分は異人のものとはいえ、自
 分の血を重んじているのですわ。景に家を継がせるつもりなのです」
「それで・・・」
「ええ、跡継ぎとなったら、片親の私の手元ではなく、兄夫婦のもとで、商売
 のことを覚えなければなりませんわ。体が小さいので幼く見えますが、もう
 じきあの子は十になります。あと何年もしないうちに、兄夫婦に引き取らせ
 るでしょう。兄はあたくしだけではなく、景のことも疎ましいでしょうに」
「そうなのですか・・・」
「今は父がおりますから、兄も目立って事を荒立てはしませんが、父ももう、
 年老いてまいりましたから・・・」
華は言葉を詰まらせ、それ以上を話さなかった。が、ルカには華の心配がわか
る気がした。景が厄介者扱いされ、冷遇されるのは目に見えていた。
それどころか、他から「日本人」の養子を迎えたいと考えている兄夫婦は、もっ
と恐ろしいことをするかもしれなかった。華の口ぶりからして、それはありえ
ないことではないどころか、心配するだけの十分な理由があるようだった。

「すっかり無駄な話をしてしまいました。関わりのない流川さまにこんな話を
 して。ご迷惑ですわね」
「いや、そんなことは」
関わりというならば、自分にとってはもう既に関わりすぎてしまっているのだ。
誰かと顔見知りになり、身の上話まで聞いてしまうなど、今まで一番避けてき
たことだったはずだ。

華はまた、ルカを正面から見た。
見すかされるようで居心地が悪いのに、なぜか顔をそらすことができない。
けれど、嫌な感覚ではなかった。気恥ずかしいが、自分の中身をさらけだして
いるような感覚。華に、つと身を乗り出されて、ルカは軽く息をのんだ。

「流川さま」
「はい」
「時折この家にいらして、あの子の話し相手になってやってはいただけないで
 しょうか?」
「・・・私が?」
「はい。やはり父親がおりませんし、あたくしではわかってやれないことも多
 いのです。それにあの子は、弥平以外の大人の男の方とほとんど接したこと
 がないのですわ」
「いや・・・しかし・・・私は・・・」
ルカは戸惑った。華はそんなルカをじっと見ている。
この目。この瞳。なぜこんなにひきこまれてしまうのか。
逆らえない。逆らえるはずがない。
「お願いいたします。ご迷惑なのは十分わかっております。けれどもう時間が
 ありません。他にお願いできる方が、あたくしにはいないのです」
「・・・わかりました」

危険だ。そう警告を繰り返す心の声を無理に押さえ込んで、ルカは答えた。
華の張り詰めた表情が、ほうっととける。
まるで手のひらで水になる雪のようだ。
ルカはそんなことを思った。

「しかし、本当に私でいいのですか?ご察しのとおり、私は訳あって素性をあ
 かせません。それはこれからもです」
「かまいません。初めに申しましたでしょう?あたくしには自信があるのです」
華はそういうと、ようやくまた微笑んだ。
それを見てルカは、自分の中でも何かが溶けてゆくような気がしていた。


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