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◆【 闇 】



しくじったな・・・。


ルカは暗闇の中で唇を噛んだ。だから犬は嫌いなんだよ、とひとりごちる。
もう少し早くやめておけばよかった。久々に都合よく現れた食料に、つい欲を出
してしまたのが失敗の元だ。
遠かった犬の吠える声が、徐々に近づいてくる。ルカはあたりを見回した。
隠れている路地から、通りの様子をうかがう。
道の向こうに、板塀で囲まれたこじんまりとした家があった。

女住まいか。

いずれにしても、大人数はいるまい。ルカは立ち上がり、大きく膝を折ると、
跳んだ。その身体はゆうゆうと道を越え、板塀の向こうへと消えていった。


* * *


塀の中に降りたルカは、庭木の下にしゃがみこみ、辺りの気配を窺った。
家の雨戸は閉じられているが、人がいるようだ。
小さな家だから大勢が住んでいるわけではないだろうが、用心に越したことは
ない。ルカは家の裏手に移動することにした。

姿勢を低くしたまま動こうとした途端、思いがけず傷が痛んだ。
バランスを崩し、ルカは植木に倒れこんでしまった。
夜更けのことだ。驚くほど大きな音が立つ。
しまった、と思う間もなく雨戸が開いて、ランプの光が漏れ出てきた。

中から顔を出したのは、60すぎ位の老人だった。
この家の使用人だろう、木綿の地味な着物を着ている。
ルカは軽く舌打ちをした。見つかればまたここで一人始末しなければならない。
この状況では、それはいかにもリスクが大きかった。
と、そこへ、もう一人住人の声がした。

「どうかしたのですか、弥平」

女の声だが、姿は見えない。
「へえ、何か庭で音がしましたので」
弥平と呼ばれた老人は雨戸の間から顔を突き出して庭を窺った。
小さいがよく手入れされた庭には、隠れるほどの物陰もない。すぐにルカは弥
平と顔が合ってしまった。弥平が小さく息をのむ。
「何かありましたか」
「あ、お嬢さん、いけません」
声と同時に雨戸がさらに開かれ、ランプが庭に差し出された。
まともに光を見てしまい、暗闇に慣れたルカは目を細める。

どうする。二人とも始末するか。それとももう一度跳んで逃げるか?
残った体力では、どちらもままならないかもしれないが・・・。

そのとき、犬の吠える声が聞こえた。ルカは慌てて身を起こす。
家の住人に気を取られている間に、追っ手が近づいているのに気づかなかった
のだ。犬の声と共に笛の音も近づいてくる。

「あの声は、あなたを?」

ふいに話しかけられて、ルカは驚いて女を見た。
逆光で顔はよく見えないが、細くても通る声の持ち主だった。
ルカは立ち上がろうとしたが、またバランスを崩し、地面に手をついた。
「貴方、怪我をしていらっしゃるのね」
犬に追われたときに、足に噛み付かれていた。犬はその場で始末してきたもの
の、思っていた以上に深く噛まれていたらしい。
「弥平、こちらに上がっていただいて」
「お嬢様・・・」
「何か子細がある様子ですもの。さ、早く」
「・・・へい」
弥平は庭に下りると、ルカに近づいて立ち上がるのを助けた。そしてそのまま、
雨戸の中へと運びこんだのだった。

* * *

運びこまれた座敷で、ルカは傷の手当てを受けた。弥平は思いのほか手際よく、
傷口を洗い包帯を巻いていく。
女はその間は姿を見せなかったが、手当てが終わるころに座敷に入ってきた。
「痛みますか?」
「いえ、大丈夫です。ご面倒をおかけします」
「薄いものしかなくてお寒いかもしれませんが、これを」
女は男物の着物を差し出した。それを見てルカは、緊張した。
この家にはほかにも男がいるのだろうか。
灯りの下で、ルカは改めて女を見た。
美しい女だった。白く肌理の細かい肌を持ち、すらりとした体つきだった。
お嬢様と呼ばれているものの、20代半ばだろうか、髪を上げている姿は、どこ
かの若奥様に収まっているのにふさわしい。

「ご安心なさって。この家の大人はあたくしと弥平しかおりません」

考えを見透かされたような気がして、ルカは我に返った。
じろじろ見たりして、不躾だと思われただろうか。そんなふうに考えている自
分に気づき、ルカは苦笑した。
「あなたは変わった方だ」
「あら、なぜですの?」
「見ず知らずの、しかも怪我をした男が、こんな夜更けに庭に忍び込んでいた
 んだ。普通なら警察に突き出すのが筋でしょう」
女は微笑んで言った。
「自信があるのです」
「どんな?」
「あたくしが大丈夫だと思った方に、悪い方はいませんの」
ルカもつられるように微笑んだ。

* * *

戸を叩く音がした。複数の男の声がする。
身を堅くしたルカの脇を立って、弥平が玄関に向かった。

「警察だ。開けろ」
「へい・・・どうかしましたので?」
「何か変わったことはないか?」
「いえ、何も・・・」
「殺人犯がこの辺りを逃げ回っておるのだ」

違う、あの人間は、俺が見たときにはもう事切れていたのだ。俺が殺したわけ
じゃない。

思わず腰を浮かしたルカを軽く手で制して、今度は女が立って行った。
「何事ですか?」
「夜分失礼。凶悪な殺人犯が、この辺りに潜伏しているようなのです」
「まあ、怖いこと」
「民家に逃げ込む恐れもありますので、十分お気をつけられますよう」
「ええ」
すぐに戸が閉まる音が聞こえた。

戻ってきた女は、座ると、正面にルカの顔を見た。
深い黒の瞳。ルカはとまどって、つい眼をそらした。
こんなふうに真正面から目を合わせられたのは久しぶりだ。
そんなことは、はしたない行為だと戒められて育つのが普通だろう。
彼女に目を見られると、なぜか心の中まで見透かされているよう気がして、居
心地が悪かった。
「弥平に床を用意させますから、どうぞ今日はこのまま、お休みになってくだ
 さいな」
「いや、そんなわけにも・・・」
「今、お出になっては、お困りになりませんこと?」
「いや・・・それはそうだが・・・。貴女は、私が怖くないのですか?」
「弥平もおりますし」
「私は、殺人犯なのかもしれないのに」
女は少し首をかしげてから言った。
「不思議とそんな気はしませんの。警察が捜しているのは、貴方なのでしょう
 けれど・・・怖いと思ったのなら、今の機会を逃したりしませんわ」
「・・・やはり変わった方だ」
女とルカは、顔を見合わせて、微笑みあった。

そのまま弥平の用意してくれた布団に横になったものの、夜明け前にルカはそ
の家を出た。
明るくなってからでは動けない。
何も言わずに出てゆくのはさすがに気が引けたが、他人と深く関わるわけには
いかないのだから、黙っていなくなるほうが良いのだ。
それにしても、変わった女性だった。自分を真正面に見つめる黒い瞳。
思い出すと何か喉がくすぐったいような気持ちになって、ルカは小さく咳払い
をすると小走りにその家から離れていった。


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